2009年06月19日

表面抗原と遺伝子検査

近年は細胞表面の免疫染色や染色体検査、遺伝子検査でFAB分類の診断を行うことも多い。CD45(白血球共通抗原)の発現率の差で白血病細胞の比率が低い場合でも検査ができるようになった。

造血幹細胞を示す抗原 [編集]
CD34
これは幹細胞であることを示していると考えられている。がん幹細胞にも発現している。

顆粒球を示す抗原 [編集]
CD13
殆ど全てのAMLで陽性となる。時にリンパ系でも陽性となる。
CD33
幼若な骨髄系で陽性となる。殆どのAMLで陽性となる。
CD11b
分化傾向のあるAMLで陽性となる。
ボディビルディング
芸術
原子力工学
グラフィックデザイン
楽譜
インダストリアルデザイン
太陽系
マラソン
風水
北海道
肥満
インディアカ
核医学
ゴルフ
性行為感染症
ポリマー
デング熱
電子工学
色素性乾皮症
農業工学

Bcellを示す抗原 [編集]
CD10
多くのB-ALLで陽性となる。時にT-ALLでも陽性となる。
CD19
殆どのB-ALLで陽性となる。
CD20
B-ALLで陽性、common ALLでは陰性のこともある。
Slg
一部のB-ALLで陽性となる。

Tcellを示す抗原 [編集]
CD2
大部分のT-ALLで陽性となる。AMLでも陽性となることがある。
CD3
T-ALLでの陽性率は高くはないが特異度が非常に高い。
CD5
T-ALLの多くで陽性となる。
CD7
T-ALLの多くで陽性、時にAMLでも陽性となる。

巨核球を示す抗原 [編集]
CD41
CD61

2009年06月01日

無線通信、蒸気船、砕氷船の発明により

北極海航路は通航可能な海となった。1917年のロシア革命により誕生したソビエト連邦は当初世界から孤立し、北極海航路の利用が避けられなくなった。北極海航路はヨーロッパ・ロシアとソ連極東を結ぶ最短航路であるだけでなく、ソ連の内水を通る唯一の長距離航路であり、対立する国の領域内を通る他の航路の代替となりうる航路だったからである。

1932年、オットー・ユリエヴィッチ・シュミット(Otto Yulievich Schmidt)率いるソ連の探検隊は、史上初めてアルハンゲリスクからベーリング海峡まで、越冬せずに一夏で北極海航路を横断した。1933年と1934年の試験航海を経て、1935年には北極海航路は正式に開通し商業利用に供された。翌年、ソ連海軍のバルチック艦隊の一部が北極海航路を移動し、日本軍との衝突が予想されていた太平洋沿岸地域へ回航された。

北極海航路を管理するソ連の政府機関・北極海航路管理局(略称:グラヴセヴモルプーチ;Glavsevmorput)は1932年にオットー・ユリエヴィッチ・シュミットを長官として設立され、北極海航路の航行や北極海の港湾建設などを監督した。

ソ連時代は「レーニン」などの原子力砕氷艦が北極海航路に就航し活躍したが、ソ連崩壊後のロシア経済の混乱と北極海航路利用の必然性の消失により、1990年代を通して北極海航路の商業利用は衰退し続けた。多少なりとも定期航路と呼べる航路は、ムルマンスクとエニセイ川河口のドゥディンカを結ぶロシア西部の航路と、ウラジオストクとチュクチ半島のペヴェク(ペベク)を結ぶ極東の航路のみである。ドゥディンカとペヴェクの間にはティクシなどの港が建設されていたが、冷戦後はほとんど寄港する船がない状態である。しかし、地球温暖化による北極海の氷の減少により、距離も短く、不安定な中東にあるスエズ運河や海賊の多いマラッカ海峡などを通らない北極海航路に注目が集まっている[1]。2005年と2008年には夏の数週間、北極海航路から氷が消え北極海航路が開通していたことが観測されている
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北極海航路沿岸の港湾のうちいくつかは年中凍らない不凍港である。西から、コラ半島のムルマンスク、カムチャツカ半島のペトロパブロフスク・カムチャツキー、日本海側のウラジオストクやナホトカが挙げられる。極東のマガダンやワニノなどは冬には流氷が押し寄せる。北極海側の港は7月から10月は使用可能で耐氷船が運航する。またドゥディンカへは年中原子力砕氷船が運航する。

極地では磁気嵐が盛んに起こるため、航海に不可欠な無線通信や衛星測位システムなどが使えなくなる状況も考えられる[3]。また、激しい寒さ、荒れる気候や霧の多さ、海面を漂う流氷も安定した航海を妨げる問題である。東シベリア付近の航路では水深が20mほどの浅さになる部分もあり[4]、船舶の大型化が制約されるおそれもある。

同航路沿岸は放射能汚染への懸念がある。特にノヴァヤゼムリャには核実験場があり、1961年には水素爆弾のツァーリ・ボンバ(RDS-220)を使用して人類史上最大の核実験が行われた。

2009年04月29日

大国主

大国主(おおくにぬし)は日本神話の中で、出雲神話に登場する神である。天の象徴である天照大神に対し、大地を象徴する神格でもある。

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大国主は多くの別名を持つ。これは神徳の高さを現すと説明されるが、元々別の神であった神々を統合したためともされる。

大国主神(おおくにぬしのかみ) - 大国を治める帝王の意、あるいは、意宇国主。すなわち意宇(おう=旧出雲国東部の地名)の国の主という説もある。
大穴牟遅神・大穴持命(おおあなもち)・大己貴命(おほなむち) - 大国主の若い頃の名前
大汝命(おほなむち)-『播磨国風土記』での呼称
大名持神(おおなもち)
八千矛神(やちほこ) - 矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す
葦原醜男・葦原色許男神(あしはらしこのを) - 「しこのを」は強い男の意で、武神としての性格を表す
大物主神(おおものぬし)
大國魂大神(おほくにたま)
顕国玉神・宇都志国玉神(うつしくにたま)
国作大己貴命(くにつくりおほなむち)・伊和大神(いわおほかみ)伊和神社主神-『播磨国風土記』での呼称
所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)- 『出雲国風土記』における尊称
幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ)

2009年04月14日

国共内戦

国共内戦(こっきょうないせん、中:国共内战、英:Chinese Civil War)は、中華民国政府率いる中国国民党軍と中国共産党軍との間で行われた内戦である。共産党軍が勝利し共産党が政権を奪取し共産党政府が設立される結果となったことから見れば、社会主義革命であるという意見もある。

初期の対立と国共合作 [編集]
結成当初の中国国民党と中国共産党は、1924年(民国13年)にコミンテルンの仲介で第一次国共合作を行うなど、国民革命に向けて共同歩調をとっていた。しかし、国共合作下で行われていた北伐の途上において、国民党右派の蒋介石が上海クーデターを決行、その後国民党左派も共産党との連携を解消(武漢分共)し、国民党と共産党は対立関係に入った。

1927年の国共合作の解消後、共産党は武力闘争を開始させた。南昌起義を皮切りに各地で武力蜂起を繰り返すが、国民党軍によって鎮圧された。それでも1931年、共産党が瑞金に中華ソビエト共和国臨時政府を建てると、国民党の蒋介石は日本に対しては宥和的な姿勢で臨みつつ、共産党に対して激しい攻撃を加えた。追いつめられた共産党が長征によって延安へと逃れると、蒋介石は延安への攻撃を図るが、反共より抗日を優先しようとした張学良による西安事件が起こり、国共対立は一時収拾する。

1937年の日中戦争勃発後、紅軍(共産党軍)が国民革命軍第八路軍(八路軍)として形式上は国民党軍の指揮下に組み込まれ、第二次国共合作に入った。ただし、抗日戦争中より国民党と共産党の間に衝突も起こっており、両者の共闘が必ずしも成功していたわけではない。

日中戦争後の軍事対立
日本の敗戦後に中華民国は戦勝国の1国となり、国際連合の常任理事国となったものの、共通の敵を失い再び国民党と共産党は戦後構想の違いより対立へと転じ、1946年6月より内戦を再開させた。国民革命軍は約430万(正規軍200万)でアメリカ合衆国の援助も受けており、共産党軍の約420万(正規軍120万)と比べ優位に戦闘を進め、東北部を除く中国全土で支配地域を拡大した。

さらに蒋介石は東北部の権益と引き換えにイデオロギーを棚上げにしてソ連のスターリンと協定を結び、ソ連から中国共産党への支援は消極的なものとなる。その間に国民革命軍は東北部で大攻勢をかけ、1947年中頃になると共産党軍は東北部で敗退・撤退し、国民党は大陸部の大部分は手中に収めようとしていた。

だが、法幣の大量発行がインフレーションを招き、農民を中心とした民衆の支持を失う事となった。そしてアメリカも、第二次世界大戦の終結以降ヨーロッパにおける冷戦の開始や日本の占領政策に集中するや、政府内の共産党シンパの活動もあり、国民党への支援は先細りになっていった。

一方の共産党は、戦後撤退していく日本軍から最新式の兵器を奪取する作戦を遂行しており、ソ連の援助も受けており、国民革命軍に対して質的均衡となるほどの軍事力を得た。

以上の結果、農村部を中心に国民党の勢力は後退していき、共産党が勢力を盛り返していき、徐州を中心に展開された淮海戦役での勝利などを経て、最終的には毛沢東率いる共産党が北京、南京、上海などの主要都市まで占領することとなった。その結果、1949年に共産党による中華人民共和国が成立した一方、中華民国を率いる国民党の指導者蒋介石は台湾島一帯へ退却した。

第二次世界大戦後、蒋介石の依頼を受けた元支那派遣軍総司令官の岡村寧次は、密かに富田直亮元陸軍少将(中国名・白鴻亮)率いる旧日本軍将校団(白団)を軍事顧問として台湾に密航させ、蒋介石を支援。地縁や血縁によって上下関係が構築されるなど、長い戦乱で軍紀が乱れきっていた国民党軍幹部に近代的な軍事技術を伝授し、軍の近代化を推進。特に艦艇、航空機の運用面で改善は著しく、八二三(金門)砲戦を勝利に導くなど、際立った効果をあげた[要出典]。

その後 [編集]
その後中国大陸では、現在に至るまで中国共産党による一党独裁政治が続くことになり、言論や表現、信仰の自由が抑圧され続けている他、チベット弾圧や文化大革命、中越戦争など内乱や戦争が頻発した。

台湾島一帯では、国民党の圧政に対する二・二八事件の鎮圧以降40年にわたって戒厳令が施行され、国民党が強権的に台湾島一帯を支配する時代が続いた。しかし、1980年代に入り戒厳令が停止され、歴史上初めて台湾生まれの李登輝が総統になると、自由選挙が行われるなど急速に民主化が進み、現在は議会制民主主義を元にした民主主義国家となっている。

ミング カメリア ハード ナーナ バスロフ バイザー シースルー ピンポン アール キンメイ おもいで モスク バゲージ きらめき ワシン ステージ ドンキ バージョ トンガ スノイズ 春が来た ガスマ オープン チルド シクラメ オーバ ケール バタリアン オカル イシュー トップ スタイ スロバキア ミドルエ ミニマム マキドイ フェイ 王様の楽園 ミラー フーズフー 時の風 リーバイ ゴユリ レイキャ ブラン フリップ ショット ホイール ガーデ アルフ

2009年03月30日

袱紗(ふくさ)

袱紗(ふくさ)

絹、縮緬などで一重または表裏二重に作り、無地や吉祥柄などの刺繍を施したもの。物を包んだり(包み袱紗)、進物の上に掛けたりする(掛け袱紗)方形の儀礼用絹布。本項で説明。
茶道で茶道具を拭い清めたり、茶碗その他の器物を扱うのに用いるおよそ縦9寸、横9寸5分の絹布。帛紗。
糊を引いていない柔らかい絹。
他の語に冠して用いる、本式でないもののことを指す語。

袱紗(ふくさ)とは贈り物の金品などを包んだり、覆うのに使用する方形の布である。小さい物を帛紗(ふくさ)と表記する。
プレシン スタン ガッツ ジャー ひのえま トーイ プールバ ジメチル ウイット ブチュ ディス ハピパラ ていてつ コチニー ハトムギ トライク 紅葉雪 スカラ はちのへ ストラ 熱帯雨林 ストーン テンス もみじが NETリブ 恋待月 サーチ 桜坂 チシェリー トートナビ フェノール ツルコ のへじ トレラ ルーセン つるみ デジカルビ ディパー オーナラ すぎごけ デルフ マニフェ デリン ようとう スエヒ レソト スイング リベート ハッピー ミリグラム

由来 [編集]
袱紗は元々は貴重品などが収蔵された箱上に掛けられていた風呂敷である。その風呂敷が贈答品を運ぶ時の汚れや日焼け防止として用いられるようになり1枚の布地から裏地付きの絹製で四方に亀房と呼ばれる房付きのものに変わり、慶弔行事の金品を贈る時の儀礼や心使いとして広蓋(黒塗りの盆)と併せて用いられるようになった。

意味 [編集]
熨斗袋の水引がくずれたり袋が皺になることを防ぐ事や先方の心中や祭礼を重んじ、喜びや悲しみを共にする気持ちを表している。熨斗袋で金封した上でなおかつ袱紗で包むという肌理細やかな心使いともといわれる。

形状 [編集]
袱紗は一般にちりめんや絹製の風呂敷より小さく包む対象も小さい正方形の布で色は進物用に使用される色である紫だけが慶事弔事兼用であり、角の1つには紐と止め具がある場合がある。

用途 [編集]
現在では冠婚葬祭において、熨斗袋(祝儀袋・不祝儀袋)を包むのに使用されるなどに使用される。

種類 [編集]
袱紗 - 亀房付きの絹製風呂敷に広蓋をあわせた物
掛け袱紗
帛紗 - 袱紗より小さいふくさ
台付き帛紗
帛紗 - 小風呂敷・手帛紗ともいう。
簡易帛紗 - 財布状のもので下記のような物がある。
金封帛紗
挟み帛紗

作法 [編集]

一般 [編集]

台付き袱紗 [編集]
先方の目前で袱紗を開いて金封を取り出し袱紗から外した台(盆の代用)の上に金封を乗せて差し出し、金封は必ず先方に向けて(金封の下部を先方に向ける)台を滑らすようにして差し出す。

慶弔 [編集]
台は両面が色違いになっていて祝い事とお悔やみ事に使い分けられるようになっている、お祝い事の場合は赤色を表になるようにお悔やみ事の場合は緑色が表になるようにする。

台のない袱紗 [編集]
台の代わりに袱紗を折りたたみその上に金封を乗せて差し出す。

簡易袱紗 [編集]
台のない袱紗同様に袱紗の上に乗せて差し出す。

国会 [編集]
国会では天皇の詔書を包むのに使用される。
国会で袱紗を見る場面で多いのは解散のときである。天皇による解散詔書は紫の袱紗に包み黒の漆塗りの盆に乗せられ、事務総長によって衆議院議長のもとへ運ばれる。

祝儀・不祝儀 [編集]

包み方 [編集]
熨斗袋を包む場合は結婚式などの慶事には右前に包み、葬儀など弔事には左前に包む。

祝儀袋の包み方 - 祝儀袋を中心より少し左の方へ寄せておき左側を中に折り込み上側をたたみ、次に下側をたたみ右側を折り裏へ折り返す(左の上下に小さく三角形ができる)。
不祝儀袋の包み方 - 不祝儀袋を中心より少し右の方へ寄せておき右側を中に折り込み下側をたたみ、次に上側をたたみ左側を折り裏へ折り返す(右の上下に小さく三角形ができる)。

色 [編集]
祝儀 - 赤色・朱色・エンジ色
不祝儀 - 緑色・藍色・鼠色

2009年03月15日

ソロヴェツキー諸島

ソロヴェツキー諸島(ロシア語 Солове́цкие острова́)は、白海オネガ湾に浮かぶ6つの島で構成される諸島である。ソロフキという略称で呼ばれる。行政上はロシアのアルハンゲリスク州に属すソロヴェツキー区である。ソロフキ空港(Solovki Airport)が所在する。面積347km2、人口968人(2002年の調査)。

ソロヴェツキー諸島は6つの島から構成されている。
アールグ モントリ 健やか バリン 九重 スクレイピ ゲゼルシ マスター スキップ プール パッセ ジュエリー 螢火 スマイリー スイカズラ うごう ジャズマ クロッカス ほうてき あまつき ナチュラル シリコン シフト トート フコイ クリアム いたやなぎ テタニー シリンジ ゼロベ チェック ワット ハリス ザッテル レート ブッダガ プラザ ちょう ハーモ せみね チャット オカルテ タンパー ヒューストン ナルシ ドリアン トップ ストーリ イズド ジェンヌ

Bolshoy Solovetsky Island - 246 km2
Anzersky Island (Anzer) - 47 km2
Bolshaya Muksalma - 17 km2
Malaya Muksalma - 0.57 km2
Bolshoy Zayatsky - 1.25 km2
Maly Zayatsky - 1.02 km2
諸島の海岸線はとても入り組んでいる。島は花崗岩や片麻岩から成っている。地形は丘が多く、最高地点は107mである。諸島の大半はヨーロッパアカマツとオウシュウトウヒからなる森林で覆われ、一部は沼地となっている。多くの湖があり、修道士たちにより運河のネットワークを構成するように互いに連結されている。

修道院
歴史的に諸島は有名なロシア正教のソロヴェツキー修道院(Solovetsky Monastery)で知られている。キリロ=ベロゼルスキー修道院(Kirillo-Belozersky Monastery)からやってきた2人の修道士により、15世紀後半に設立された。16世紀後半までに修道院はもっとも裕福な地主となり、またロシアにおけるもっとも影響力のある聖地となった。 現在の拠点とその主要な教会はイヴァン4世統治期初期に、Philip II, Metropolitan of Moscowの依頼で石で建造された。ニーコンの改革とそれに続く古儀式派への迫害はこの修道院にも及んだ。修道士たちは断固として従来の信仰を守り、皇帝の代理人を追放したため、皇帝アレクセイの軍隊による8年に及ぶ包囲攻撃(Solovetsky Monastery Uprising)を招き、最終的に多数の修道士が殺害された。

ロシアの帝政期を通じて、修道院は強固な要塞として知られ、リヴォニア戦争(16世紀)、大動乱期(Time of Troubles, 17世紀)、クリミア戦争(19世紀)、ロシア内戦(20世紀)と外敵を退け続けた。

強制収容所 [編集]
ロシア十月革命後、諸島はソビエト最初の強制収容所となり、他のソビエトのグラグ(強制労働収容所・矯正収容所)のモデルとなった。レーニンがまだソビエトを統治していた1921年、収容所として開設された。1929年に刑務所となり、第二次世界大戦前夜の1939年に閉鎖された。ソビエト政府は諸島の戦略的な価値に気付き、戦争の開始とともに北方艦隊の基地が置かれた。

1974年、ソロヴェツキー諸島は歴史・建築博物館と自然保護区として指定された。1992年に「中世の宗教コミュニティの信仰・不屈・進取性を表す、北部ヨーロッパの荒涼たる環境における修道施設の傑出した例」として、ソロヴェツキー諸島の文化と歴史遺産群が世界遺産に登録された。現在ではロシア北部における代表的な観光地となっている。ケミからの船またはアルハンゲリスクからの飛行機で行くことができる。

2009年02月26日

コーヤコーヤ星の動物

ウオガエル
魚とカエルの合成生物。冬にはカエルのように冬眠する。
デンデンワニ
人の背丈ほどあるカタツムリとワニの合成生物。
タマゴ鳥
タマゴから羽が生えてる鳥。劇場版ではジャイアンとスネ夫が殻を割るがいくら割ってもタマゴのまま。
オトト鳥
魚と鳥の合成生物。ガルタイト鉱石を使って冬にはトカイトカイ星に飛び立つ。
パオパオ
人の背丈ほどの二本足の象。胴体はなく、顔から足が生えている。野生動物ではあるが人間を怖がらない。元々は同作者の「ジャングル黒べえ」登場のキャラクターだった。
ダックスキリン
普段はダックスフントのように胴長の体型をしているが、高いところのえさを取るときには胴が短くなり、首が伸びる。劇場版ではジャイアンとスネ夫が胴と首を同時に引っ張って伸ばそうとする。
パンク
体内に空気が詰まってるパンダ。体内の空気を一気に放出して空を飛べる。
1951年、安孫子と共に『毎日小学生新聞』に投稿した「天使の玉ちゃん」が見事採用され、共に17歳にして漫画家デビューを果たした。2人は博学博識で、そこから生まれるユニークかつユーモア溢れるアイディアは数知れない。その後、『オバケのQ太郎』、『パーマン』、『ドラえもん』などの大ヒット作を生み出した。1987年にコンビを解消し、藤子不二雄Fとして活動を始めたが、約1年後、トキワ荘の仲間だった石ノ森章太郎の助言によって藤子・F・不二雄に改名した。詳しくは藤子不二雄の略歴を参照。
ぺぱーみ メンメン ソング バンブ チミン シーザー キックサニ カエデ キンロバイ ナンバー マリンバ ディー ハードコア トース ジョーク タンブラ ナイアガ ラック セリン ブラック セルラ オルガ マスト ピタヤ ビンテー センシ ワサビ えんおう キセル ニューマ ふきのとう ブルーマ シェイ プランター 暮し百科 ザック エンド マート ニューロン ダーシズン 雪しぐれ ガボン ぴってろ ミケー デソ プデ レーナー レット ピーコック トレーサ

1982年:第27回小学館漫画賞児童部門 受賞(『ドラえもん』当時は藤子不二雄)
1989年:映画特別功労賞、ゴールデングロス賞 受賞
1994年:第23回日本漫画家協会賞文部大臣賞受賞
1996年9月20日:大長編ドラえもん『のび太のねじ巻き都市冒険記』を執筆中に鉛筆を持ったまま意識を失う。
1996年9月23日:肝不全のため東京都新宿区の慶應義塾大学病院で死去。享年62。
1996年:アニメーション神戸'96読売賞 受賞(アニメーションの文化と産業振興への寄与に対して)
1997年:第1回手塚治虫文化賞 マンガ大賞 受賞(『ドラえもん』)
2006年:多摩区に住んでいたため川崎市の生田緑地内に「藤子・F・不二雄ミュージアム(仮)」という記念館が設立されることが正式に発表される。2008年12月、建設地を川崎市多摩区長尾2丁目・小田急向ヶ丘遊園ボウル周辺に決定(2011年秋完成予定)。

2009年02月09日

奈良時代(ならじだい、710年-794年)

奈良時代(ならじだい、710年-794年)は広義には710年(和銅3年)に元明天皇が平城京に都を移してから、794年(延暦13年)に桓武天皇によって平安京に都が移されるまでの84年間を、狭義には710年から784年(延暦3年)に桓武天皇によって長岡京に都が移されるまでの74年間を指す日本の歴史の時代区分の一つ。
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奈良の地に都(平城京)が置かれたことから奈良時代という。ただし、740年から745年にかけて、聖武天皇は恭仁京(京都府木津川市)、難波京(大阪府大阪市)、紫香楽宮(滋賀県甲賀市)に、それぞれ短期間であるが宮都を遷したことがある。

平城京遷都には藤原不比等が重要な役割を果たした。平城京は、中国の都長安を模した都を造営し、役人が住民の大半を占める政治都市であった。

平城京への遷都に先立って撰定・施行された大宝律令が、日本国内の実情に合うように多方面から検討し変更されるなど、試行錯誤しながら、律令国家・天皇中心の専制国家・中央集権国家を目指した時代であった。また、天平文化が華開いた時代でもあった。

710年に都は奈良の平城京に遷った。この時期の律令国家は、戸籍と計帳で人民を把握し、租・庸・調と軍役を課した。遣唐使を度々送り、唐をはじめとする大陸の文物を導入した。全国に国分寺を建て、仏教的な天平文化が栄えた。古事記、日本書紀、万葉集など現存最古の史書・文学が登場した。この時代、中央では政争が多く起こり、東北では蝦夷との戦争が絶えなかった。

政治史的には、710年の平城京遷都から729年の長屋王の変までを前期、藤原四兄弟の専権から764年の藤原仲麻呂の乱までを中期、称徳天皇および道鏡の執政以降を後期に細分できる[1]。

東アジア文化圏と奈良時代の対外関係
618年、隋に変わって中国を統一した唐は、大帝国をきずき、東アジアに広大な領域を支配して周辺諸地域に大きな影響をあたえた。西アジアや中央アジアなどとの交流も活発であり、首都長安は国際都市として繁栄し、玄宗の治世前半は「開元の治」と称された。周辺諸国も唐と通交し、漢字・儒教・漢訳仏教などの諸文化を共有して東アジア文化圏が形成された。

東夷の小帝国
その中にあって日本の律令国家体制では、天皇は中国の皇帝と並ぶものであり、唐と同様、日本を中華とする帝国構造を有していた。それは国家の統治権が及ぶ範囲を「化内」、それが及ばない外部を「化外」と区別し、さらに化外を区分して唐を「隣国」、朝鮮諸国(この時代には新羅と渤海)を「諸蕃」、蝦夷・隼人・南島人を「夷狄」と規定する「東夷の小帝国」と呼ぶべきものであった[2][3]。もちろん律令にそう規定し、それを自負したり目指したことと、とりわけ唐や朝鮮諸国との関係に実態がともなったかどうかは別の問題である。

東大寺の正倉院
聖武天皇・光明皇后にかかわる遺品が数多く収められている


630年の犬上御田鍬にはじまる日本からの遣唐使は、奈良時代にはほぼ20年に1度の頻度で派遣された。大使をはじめとする遣唐使には、留学生や学問僧なども加わり、多いときには約500人におよぶ人びとが4隻の船に乗って渡海した。日本は唐の冊封はうけなかったものの、実質的には唐に臣従する朝貢国の扱いであった[4]。使者は正月の朝賀に参列し、皇帝を祝賀した。ただし、当時の造船術や航海術はなお未熟な点も多く、海上での遭難も少なくなかった。そのような危険を冒してまで遣唐使たちは、多くの書籍やあるいはすぐれた織物や銀器・陶器・楽器などを数多く持ち帰り、また、唐の先進的な政治制度や国際色豊かな文化をもたらし、当時の日本に多大な影響をあたえた。中でも知識に対する貪欲さはすさまじく、皇帝から下賜された品々を売り払って、その代価ですべて書籍を購入して積み帰ったと唐の正史に記されるほどであった[5]。文物だけでなく、知識を身につけた留学生や留学僧も日本に戻って指導的な役割を果たしている。とくに、帰国した吉備真備や玄昉は、のちに聖武天皇に重用され、政治の世界でも活躍した。

新羅
白村江の戦いののち朝鮮半島を統一した新羅との間にも多くの使節が往来した。しかし、日本は国力を充実させた新羅を「蕃国」として位置づけ、従属国として扱おうとしたため、ときに緊張が生まれた。これにより、遣唐使のルートも幾度か変更されている。新羅は、半島統一を阻害する要因であった唐を牽制するため[6]、8世紀初頭までは日本に従うかたちをとっていた。渤海の成立後に唐との関係が好転した新羅は、やがて対等外交を主張するようになったが、日本はこれを認めなかった。両国の関係悪化は具体化し、新羅は日本の侵攻に備えて築城(723年、毛伐郡城)し、日本でも一時軍備強化のため節度使が置かれた[7]。737年には新羅征討が議論に上ったが、藤原武智麻呂ら4兄弟が相次いで没したため、この時には現実のものとはならなかった。755年、安史の乱が起こり唐で混乱が生じると、新羅に脅威を抱く渤海との関係強化[8]を背景に藤原仲麻呂は新羅への征討戦争を準備している(仲麻呂の没落によりやはり実現しなかった)。このように衝突には至らなかったが、新羅の大国意識の高揚により、新羅使も779年を最後に途絶えることとなった。こうした一方で、新羅は民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きく、現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には新羅商人が仲介したものが少なくないとされている[9]。8世紀末になると遣新羅使の正式派遣は途絶えたが、新羅商人の活動はむしろ活発化している。

渤海
713年、靺鞨族や旧高句麗人(狛族)を中心に中国東北部に建国された渤海とは緊密な使節の往来がおこなわれた。渤海は、唐・新羅の対抗上727年(神亀4年)に日本に渤海使を派遣して国交を求め、日本に対し臣従するかたちをとった。日本もこれを「蕃国」高句麗の再来としてその朝貢を歓迎し[10]、また新羅との対抗関係から、渤海との通交をきわめて重視し、遣渤海使を派遣した。その渤海も、国力の充実とともに日本に対する「臣従」を必要としなくなり、771年の渤海使は上表文が無礼であることを日本に非難された。その一方で渤海使も交易に比重を置くようになり、来日の頻度も増えていった。平安時代初期には完全に変質したものとなり、824年には右大臣藤原緒嗣が「渤海使は商人であるので、今後は外交使節として扱わないように」と言うほどのものとなった[11]。

隼人と南島
九州南部には、地下式横穴墓・地下式板石積石室墓・土壙墓などの独特な墓制が維持された地域であり[12]、この地域の人々は古くは熊襲、7世紀後半ごろからは隼人と呼ばれるようになる。5世紀末ごろから徐々に大和王権の影響が浸透していたが、大宝律令が施行された時点でも依然として律令制的支配の及ばない地域だった。699年に三野城・稲積城が築かれ、律令国家は軍事力を背景とした支配を進めはじめる。709年には隼人の朝貢制度が始まり、朝廷において蝦夷とともに異民族たる「夷狄」が服属していることを示し、国家の儀礼において重要な役割を与えられた[13]。しかし支配への抵抗も強く、特に720年には7年前に新設された大隅国の国守陽侯麻呂が殺害される事件が起こった。これに対して律令政府は大伴旅人を大将軍として大規模な軍を派遣し、翌年までかかって鎮圧した。その結果722年にははじめて造籍が行われ、以後隼人の組織的な抵抗はなくなった。ただ奈良時代における隼人はあくまで朝貢の対象であり、大隅・薩摩の両国に班田が行われるのは、平安時代に入った800年(延暦19年)のことである。

一方今の南西諸島からは、すでに7世紀の前半から使者が大和王権に「朝貢」するようになっていたが、698年には覓国使が南島に派遣され、翌年多褹(種子島)、夜久(屋久島)、菴美(奄美大島)、度感(トカラ列島または徳之島)が朝貢に訪れ、702年には行政組織としての多禰島が設置された。南島からは工芸品の材料となる夜光貝や赤木といった特産物がもたらされ、また南島へは鉄器がもたらされた[14]。大宰府跡からは「掩美嶋」(奄美大島)・「伊藍嶋」(沖永良部島か)と書かれた木簡が出土しており、また奄美大島奄美市の小湊・フワガネク遺跡から夜光貝による貝匙製作跡が見つかっている。しかし9世紀になると「国なくして敵なく、損ありて益なし」といわれたように律令国家の関心は薄くなっていった。

蝦夷
歴史上、蝦夷と呼ばれる人々がどのような人々であったのかはいまだにさまざまな論があるが、何であれ中華思想に基づいた律令国家にとっては、「自らの支配下の外側にある人々という概念でしかな」かった[16]。7世紀半ばに阿倍比羅夫らが遠征し、現在の秋田や津軽地方、さらにその北方に至ったとされるが、8世紀初頭に律令国家に安定的に組み込まれていたのは、今の山形県庄内地方や宮城県中部以南までであった。当時は城や柵(城柵官衙と呼ばれる施設)が作られ、その周囲に柵戸(きのへ)と呼ばれる民が関東や北陸地方から移民させられて耕作に当たっていた。郡山遺跡(宮城県仙台市)は当時の中心的な官衙であったとみられている。平城遷都の前後から政府は急速な拡大政策をとる。708年には越後国に出羽郡をおき、712年には出羽国とした。また東海・東山道諸国の民を城柵に移し、農耕や防衛に当たらせた。これに対して蝦夷は709年および720年に反乱を起こし、720年の時には陸奥按察使上毛野広人が殺害される事態となった。政府は大軍を発してこれを鎮圧し、新たに郡と柵、さらにこれらを統括する施設として多賀城を建設した。一方日本海側では733年に出羽柵が現在の秋田市に移設された(後の秋田城)。

その後政府は蝦夷の首長を郡司に任命して部族集団の間接的な支配を行い、また個別に服属してきた者は俘囚として諸国に移民させられたりした[17]。こうして東北地方南部は徐々に律令制の内部に組み込まれていくが、東北地方北部以北は依然として律令国家の支配外であった。しかし文化・経済の交流は続き、擦文文化には出羽地方の古墳の影響を受けた末期古墳が築造され、また恵庭市では和同開珎も出土している[18]。

藤原仲麻呂政権は対蝦夷政策も積極的に行った。757年(天平宝字元年)に仲麻呂の子朝狩が陸奥守となり、新たに勢力外だった土地に桃生城および雄勝城を建設した。また762年多賀城を改修し、蝦夷への饗給(きょうごう)を行うにふさわしい壮大な施設へと変えた。しかし774年(宝亀5年)には桃生城が蝦夷に攻撃されて放棄され、780年(宝亀11年)には伊治呰麻呂が陸奥按察使紀広純を殺害し多賀城を焼き払うという事態に至り、これ以降三十八年戦争といわれる果てしない戦いへと突入する。戦いは奈良時代の間には決着がつかず、坂上田村麻呂の登場によりようやく終息する。後に藤原緒嗣により「今天下の苦しむところは軍事と造作なり」と指弾されることとなる対蝦夷戦争は、「天皇の政治的権威の強化に大きな役割を担っていた」[19]のである。

2009年01月24日

女性差別

きたみびお 浮草ぐらし ウェッジ ビーピー ツベル タイマー ビヤマハギ フロマ シケイン フリーラジ マスタ わかくさ ハイネッ パラ プロテス ロンネット ソリテー マンス スライド バヌア マート びばい フレアスカ ドトイ ラッシュ ライム ワインバ ナポリタン インゴット リッピン ウェル バター ドグマ とうりゅう スロット モラリ トレジャ フラッシ ヒマワ チャロ ムック テスト パネラー ダース サイト ジャッジ エタイ マッピング 露の契 フェージュ

事例としては、労働問題、参政権、宗教に根ざす問題などがある。

労働問題については、パート労働者の拡大が主として女性によって担われていたことに起因する(詳細は非正規雇用を参照)。21世紀を迎えてもグラスシーリングなどの状況があるが、待遇の改善は進んでいる。

参政権については、女性参政権を参照されたい。

宗教については、各国の事例を参照されたい。

日本の事例

女性労働問題
労働における女性差別的な制度は改善されているものの、意識としては、まだ男性が優遇されていると感じる人が多い。実際、男性の55.5%、女性の62.8%が、職場において男性が優遇されていると感じている。

事例
男女の賃金差を生む一部の要因として、女性差別があると言われている[2]。
2007年の男性一般労働者の給与水準を100とした場合、女性一般労働者の給与水準は66.9となっている[3]。この賃金差を生み出す要因(括弧内はその要因によって生み出される賃金差)として、2003年の時点では、職階(10.9)、勤続年数(5.6)、産業(2.5)、年齢(2.0)、学歴(1.9)、労働時間(0.8)、企業規模(0.6)が挙げられている[4]。2005年の段階で、雇用形態の違いによっても10ポイント以上の賃金差が生み出されている[5]。これらの全ての要因を標準化した場合、女性の給与水準は90程度になると推定される。残りの賃金差は、職種の違いとコース別雇用(総合職か一般職か)が大きな要因とされている[5]。
これらの要因の中で職階差については、女性の離職率が高いなどを理由にしたジェンダーバイアスによる昇進機会の不平等の存在が指摘されている[5]。職階によって生み出される賃金差が10.9ポイントであることから、昇進機会の不平等によって生み出される賃金差は数ポイント程度と推定される。
賃金差を生むその他の要因には、業務の難易度や手当の違いが挙げられている[6]。家族手当や住宅手当などの生活手当は一般的に世帯主に支給され、世帯主従業員のほとんどは男性である[7]。
女性であることを理由とした、管理職への非登用が存在する[8]。このような女性であるために管理職等上級職へ昇進できないことを、グラスシーリングと呼ぶ。
一見すると性差別ではないものの、体力や、身長・体重など[9]を条件とすることによって、結果的に片方の性を差別することになる間接差別の存在も指摘されており、2007年4月施行の改正男女雇用機会均等法によって、間接差別は禁止されることになった[10]。
日本の裁判官(特にキャリアの長い年配の裁判官)は圧倒的に男性が多いことから、裁判で扱われる女性の労働事件(人事処遇や解雇)において、女性労働者の立場を汲んだ判断がされているかどうか不安があるとの意見がある[11]。
出産を契機とした退職
上述の裁判所による判例、また1986年に施行された男女雇用機会均等法により、結婚・妊娠・出産退職制は禁止されている。しかし、慣行としては結婚・出産によって退職しなければならないという差別が一部で残っており、全産業の約2割でこういった慣行があると指摘する調査がある[12]。退職トラブルへ行政機関が関わる件数も増加している[9]。退職ですらこういった状況で、退職まではいかない意に添わない処遇はもっと多いだろうと推測する意見がある[9]。

その他
霊峰や土俵への女性の立ち入りを制限している事例を女性差別だとして立ち入りを求める活動がある。しかし、これらの主張は同じ女性からの批判も多く世論には支持を得られていない(詳細については女人禁制、太田房江を参照)。

歴史
日本の女性労働者の待遇改善問題は、裁判所による政策形成の歴史とも重なる。すなわち、行政府が男女の雇用機会均等に向けて動かない中で、裁判所が判例を通じて性差別を是正していった事例として挙げられる 。

司法による格差是正の動きは、1950年代後半から1960年代に始まった。当時、労働に関する法令としては労働基準法があったが、労働基準法は賃金について女性を理由とした差別を禁止していたのみであり、採用や解雇(例えば、当時は女性の早期退職は社会では当然の慣行となっていた)といった、その他の労働面における差別を訴える法律が存在しなかった(そして、賃金についても、企業は女性を男性と異なる職に就けることによって、差別化を行っていた)[2]。

こうした状況の中、まず日本国憲法第14条(法の下の平等)を理由とした格差是正が試みられた。しかし、私人間効力としないことを理由にこの動きは失敗した[2]。ところが、裁判所は1966年の住友セメント事件で民法第90条(公序良俗違反)(私人間効力の間接効力を参照)を利用することによってこの状況を打破した[2]。この動きは全国に広がり、各地の裁判所で民法第90条を使用して女性の早期退職、結婚退職、出産退職が是正されていった[2]。

なお、国会で男女雇用機会均等法を制定したのは、1985年のことであった[2]。

過去の事例
以下では、日本における事例を挙げる。なお、戦前においては、参政権や教育を受ける権利も議論となっていた。女性参政権、男女共学、性差別なども参照。

最高裁が男女別定年制を無効とした判例
・伊豆シャボテン公園事件昭和50年8月29日 ・日産自動車事件昭和56年3月24日 ・放射線影響研究所事件平成2年5月28日
1981年(昭和56年)3月24日、那覇地裁においてトートーメー継承問題(女性に財産相続権が認められない慣習)を違憲とする判決が下る。トートーメーは沖縄式の位牌。現在でも沖縄では先祖崇拝心の厚さから、長男優位の相続慣習が根強い。
1985年(昭和60年)6月第102回国会外務委員会において、外務政務次官森山眞弓が小金井カントリー倶楽部でのコンペ参加を女性であるという理由で断られた件について、大変に遺憾である旨の答弁を行った。
また、当時の外務大臣安倍晋太郎はこの事実を直前に知り、強い遺憾の意を示すために同コンペの参加を見送ったと述べている[13]。
ちなみに、第102回国会において女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約締結を承認している。
1995年(平成7年)8月、住友金属工業の女性社員4人が昇給・昇進で差別されたとして訴訟を起こす。
やがて訴訟は他の住友グループ各社にも広がる。内訳は住友電気工業(2人)住友化学(3人)住友生命(12人)。
10年以上続いた一連の裁判は、2006年4月の住友金属工業と原告との和解をもって終止符が打たれた。
2003年(平成15年)7月、中高一貫の男子校海陽学園設立構想に対し、名古屋の女性グループ「ワーキングウーマン」など15団体が連名でトヨタ自動車・中部電力・JR東海の三社宛に女性を排除せぬよう抗議。その後弁護士会や男女共同参画局に審議を要請するが、愛知県は設立を許可、2006年開校。
開校当初の同校への批判は女性差別の観点からではなく、同校のエリート養成方針に対して教育格差の観点からなされることが多かった。
総合職、一般職という区分があった頃(例えば1992年)は、「女子学生は採用しない」「(男子学生には送られる資料が)女子学生には送られない」といった事例があった。こういった事例の背景として、当時の企業側が女性を本格的な労働力としては考えていなかったことが指摘されている[14]。男性は総合職、女性は一般職と分けることによって、昇進・給与等に格差があったが、その後、総合職・一般職といった区分が曖昧になったり、区分自体を廃止する企業が増えた。ただし、総合職・一般職の区分が曖昧になる一方で、女子学生の総合職・一般職に対する理解の不足も指摘されている。総合職・一般職の垣根が低くなっているにもかかわらず、一般職という言葉だけで顔をしかめたり、総合職の地方への転勤や接待への認識が足りず、総合職における女性の定着率の低さが指摘されている[15]。

イスラム諸国に於ける女性差別に対する議論
イスラム教を信仰する諸国に於ける女性差別は、しばしば反イスラーム主義的立場からイスラム教の教義自体の後進性と見做され[要出典]、逆に保守派ムスリムの護教的立場から差別が正当化されることもあり[16]、論争となっている。

なお、イスラム教のコーランは、宗教的な教義だけでなく日常の生活における決め事も定めているため、現在でもイスラム教を信仰する者は日常生活でもイスラム教の教えに従っていることが多い。ただし、生活に対する決め事をどれだけ守るかには地域によって極めて大きな差がある。

以下にいくつかの事例を挙げる。

教育を受ける権利
女性の方が男性よりも識字率が低くなっている地域がある(例えば、イエメンでは、男性69.5%に対し、女性は28.5%となっている)[17]
イランでの女性のスポーツ観戦の禁止
イラン革命後、イランでは女性のスポーツ観戦が禁止されている[18]。

欧州
欧州の大半の人々が信奉するキリスト教でも、神がアダムを最初に創り、アダムに仕える者を選ぶ段階になり既存の動物からその役割を満足に果たせるものがいなかったためアダムの肋骨からイブが創られたと言う神話や新約聖書のパウロの文言[19]などを背景に男女差別を正当化する言説が伝統的に強かった[20]が、20世紀に入って婦人運動が活発化し、第二次大戦後には多くの諸国で婦人参政権が認められた。現在公的な場面では女性差別は堅く禁じられており、女性の社会進出も進んでいる。

また、イスラム教信者の移民が増えた結果、「処女でないことを理由とした結婚の無効」など「(従来の欧州の価値観からみて)これは女性差別だ」と指摘するような状況が起きている[21]。

女性労働問題については、パート労働者の待遇改善の歴史とも重なる。非正規雇用を参照されたい。

インド
インドの多数派宗教であるヒンドゥー教でも女性差別思想が伝統的に正当化される傾向が強く、サティーや強制婚などの女性差別的慣習が根強く残存している。女性は思春期のころからかなり年上の男性と夫婦生活と生殖を始めさせられ、夫婦の年齢差が男性の優位性をより強化している[23]。しかし、都市部では女性の社会進出と人権意識の高まりが見られる[要出典]。

中華人民共和国
社会主義国家となり、中華人民共和国は男女平等を標榜している。しかし、改革開放後に社会が競争社会となると、女性は出産や育児で職場を離れるとして、差別されるようになった。そのため、求人の際に女性は「未婚のみ」と条件が付けられることが普通に行われている[24]。結婚についても、男性は出世のためには有利になるが、女性は不利になる状況にある。そのため、結婚していることを隠す女性が多くなり、そういった女性をさして「隠婚族」という言葉が生まれた[24]。

韓国
韓国では、1995年に女性発展基本法が制定され、女性の社会進出も進んでいる。しかし、農村などでは未だに儒教文化を理由とした慣習から家父長的思想並びに根強い男女差別思想を持っている人間も少なからず存在している[要出所明記]。例えば、祖先祭祀の方法などが女性差別的であるという意見もある。

また、未亡人や離婚した女性への差別は、先進国やアラブ諸国と比べても、韓国はひどいという調査がある。

著名人の女性差別発言・行動
石原慎太郎(現東京都知事)「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババァ」(2001年11月)
→都知事側があくまでも発言の非を認めない態度に終始したため、原告113名が慰謝料を求めて損害賠償請求訴訟を提起したが、裁判所は発言の違法性と不適切性は認めたものの、都知事の発言は女性全体への侮辱にすぎず、原告ら個々人の名誉を傷つけたものではないとして請求を棄却している。石原慎太郎東京都知事「ババァ発言」事件も参照。
ローレンス・サマーズ(元ハーバード大学学長)「理数系の分野で活躍する女性が少ないのは、男女に生まれつきの違いがあるからだろう」(2005年1月)
→ハーバード大学内外での批判を呼び、2ヵ月後、ハーバード大学で前代未聞の学長不信任案が教授会で可決された。
柳澤伯夫(元厚生労働大臣)「女性の数は決まっている。(機械と言っちゃ申し訳ないけど)産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭でがんばってもらうしかない」(2007年1月)
→女性を「機械」「装置」に喩えたことや、発言の内容を「少子化の責任をすべて女性に押し付けるもの」と解釈し、これを女性差別だと主張する野党の民主党・社民党・共産党などの他、与党である自民党・公明党からも不用意な発言だとして批判が相次いだ。[要出典]

宗教と女性差別

キリスト教
世界人口の4割を占めるキリスト教では、神が男性であるというイメージが保持されており、カトリックでは聖職者の特定の地位になることが男性にしか許されていない。(司祭の項を参照)プロテスタントでは女性の牧師が認められている教会もあるが、今なおそれを認めるか否かの議論がある。例として米国聖公会は首座主教にレズビアン女性を置いている。一方、南部バプテスト連盟は婦人の牧師を認めていない。女性の教役者を認められないとする立場は、使徒パウロの第一コリント14:34、第一テモテ2:12-15等を根拠聖句としている。

2009年01月17日

笑う犬

『笑う犬』(わらういぬ)は、フジテレビが放送した1998年から始まった『笑う犬の生活』から2003年の『笑う犬の太陽』までのテレビ番組(バラエティ番組)の総称である。本項ではそれら全ての番組を取り扱う。略称「笑犬」(わらいぬ)。

1998年10月14日 - 1999年9月29日 水曜23:00 - 23:20
リーベ フラッ ザイル クチン セドラ タコメ ブラウ レット シスプ じゃくやく ラップワピ デリバリ ツワブキ フリーダム ソート ナビタイア メンマ タルト ガネット スニファー オート スコア えーびー ちょうい たんし ニヒル モップ 国内チュ ティーン ギャレー 幻のユウ ブイゾ シールド パサー タジン ダウンライト コスル ナポリ ヒモパン ジューシー ショー ポニカ いーん リターン パリー トライア バスー 山菜サーチ ヴェリ ローズ


1998年10月、ウッチャンナンチャンの内村光良の「純粋コント番組を作りたい」の一言で始まった番組が『笑う犬の生活-YARANEVA!!-』。「純粋コント番組」というコンセプトのためか、ロゴも「笑う」が大きく表示され下に小さく「犬の生活」さらに小さくその下に「-YARANEVA!!-」が付いていた。
2000年12月31日のフジテレビ大晦日特番での内村と志村けんの対談で、内村は「5、6年前自分と志村は一度飲み屋(スターバー)で偶然会い、その時志村に言われた『あなたはコントで出てきたんだから、コントを続けなさい』という言葉を胸に「笑う犬」を立ち上げた」と番組制作のきっかけを明かしている。しかし志村は「自分はその時、既に泥酔状態だったので自分の言った事を覚えていない」と返したため、内村は倒れこんでしまった。
タイトルの「笑う犬の生活」は座長内村の敬愛するチャーリー・チャップリンの『犬の生活』(1918年公開。アメリカ映画)から(小須田部長のコントが飼い犬の悲哀ならこれは野良犬の悲哀)。
サブタイトルの「YARANEVA!!」は以前ウッチャンナンチャンが同じフジテレビでやっていた番組『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば』から。不慮の事故で終わってしまったこの番組への想いがあり、内村の相方・南原清隆に許可を貰って付けられていた。
『笑う犬の生活』のメンバーは内村、まだ若手だったネプチューンの3人、オセロの中島知子と女優の遠山景織子(これを聞いた内村は男性4人と女性2人だと『夢で逢えたら』と比較されるとかなり意識した)。内村の相方・南原は「自分はメンバーに内緒で番組のマスコットキャラクター・青い犬の着ぐるみに入って初回から参加していた」とコメントしたことがあるが、冗談なのか真実なのかは不明。
番組のマスコットキャラクター・青い犬の息子が現在フジテレビのマスコットキャラクターのラフくんである。
当初のエンディング曲は、宇多田ヒカルのデビュー曲『Automatic』。コントで中島がプロモーションビデオのパロディを演じたこともある。なお、オープニング曲であるショッキング・ブルーの『ヴィーナス』はシリーズを超えて使用されていた。
エンディングで内村が、この番組の次に放送される『ニュースJAPAN』のキャスター(当時)・安藤優子に扮してミニコントをし話題に。この「安藤さん」が終わった後すぐに『ニュースJAPAN』の生予告に接続されるため、いわゆる「一方的なコラボレーション」であった。安藤も報道フロアのモニターからそれを見ていて必死に笑いを堪えており、それがきっかけで2人は親しくなった(「安藤が怒っている」と聞いた内村が「安藤さんのモノマネを止めようかな…」と番組内で発言した際、安藤がゲストとして突如出演。「私、あんな変な顔してますか?」とツッコんではいたが、モノマネを楽しんでいる様子だった。そこから交流が始まり、『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングに出演した際には互いに花を贈り合っていた)。
稀に『ニュースJAPAN』に大物政治家がゲストとして出演した際、「安藤さん」の後の微妙な空気の中でゲストの政治家が映し出される場面も見られるなどハプニング性のあるコーナーであった。
このスタイルは放送時間が移動し『笑う犬の発見』にリニューアルした際、エンディング時に後番組の『発掘!あるある大事典』のパロディーを行った点に引き継がれているが同番組の予告は事前収録のため、各回のハプニング性では本家に及ばなかった。
23時からの深夜番組でありながら高視聴率をたたき出し、1999年6月にはゴールデンタイムでのスペシャルが放送された。この際は、ゲストとしてエンディング担当の宇多田が青い犬の着ぐるみを着て登場。当時は人気が社会現象化しメディア露出が稀だったため話題となった。この時は堀内健が着ぐるみの中身を知らずにドロップキックなどをしたため、内村が必死でフォローしていた。

笑う犬の冒険-SILLY GO LUCKY!-
1999年11月21日 - 2001年9月16日 日曜19:58 - 20:54

1999年10月に異例の速さで日曜夜8時のゴールデンタイムへ進出、番組タイトルが「生活」から「冒険」に変わる。バレーボールワールドカップの為、スタートが11月にずれ込んだ。
『笑う犬の冒険』初回は2時間スペシャルで新メンバーとして南原、ビビるが加わった。なお、南原のレギュラー入りは視聴者から反対の投書が多く寄せられた。
オープニングシーンでレギュラー登場の際のメンバー紹介役として谷啓も参加、バックダンサーは当時3人だったEE JUMP。『生活』時代からのキャラに加え、新メンバーとの新作コントも人気を生んだ。『冒険』時代が一番の安定期であった。2000年1月9日にNHK大河ドラマ『葵徳川三代』の初回と同じ時間に特番を放送し、大河ドラマに視聴率で競り勝った経緯がある。
2000年3月に番組出演者・スタッフの不祥事により同年5月までこの当時、日曜夜8時枠の筆頭スポンサーだったP&Gを含め(ほかに日清食品・キリンビバレッジ・フジパン・ブルボン・NISSANなど)表向きスポンサーなしの状況があった。ただ、『冒険』休止時のアニメスペシャルやナイター中継は従来通り表示した。
番組が以前『ダウンタウンのごっつええ感じ』が放送されていた枠に移ると決まった時、座長・内村は「やっぱ、ごっつの後をやるなら松ちゃん(ダウンタウン 松本人志)に一言聞きたい。聞いて、そういうのがOKだったら僕はやれるけど、そうじゃないとやっぱ出来ない」と最後まで反対していた。しかし松本は「いや・・・それは全然・・・かまへんのんちゃうん?」と言ったため、晴れて日曜20時に『笑う犬の冒険』が始まった。
冒険以降の構成作家として宮藤官九郎も参加、『太陽』ではコントにも出演。
2001年4月に遠山の出産による卒業とともにメンバーを大幅増員。土田晃之・与座嘉秋・杉崎政宏・ベッキー・松尾れい子・大谷みつほが加わる。